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彼女の福音

拾弐 ― 痛みの代償 ―

 

 拳が熱くなって、ジンジン痛み出した。どうやら殴った際に歯に当たったらしい。

「陽平っ!」

 後ろで杏が僕を呼ぶ。でも振り返っている場合じゃない。

「な、何よあんた?どっから来たのよ?」

「へへ、僕はさ、馬鹿だから高校ではあまり物覚えは良くなかったんだけどさ」

 坊主が立ち上がる。眼の焦点がまだ合っていないから、まずはこのオカマを何とかするか。

「二つだけよ〜く学んだことがあるんだ」

「はぁ?何言ってんのアンタ?」

「一つ目は、学食で竜太サンドを買うには一分以内に並んでなきゃいけないこと」

 ぐっと拳を握った。

「もう一つは……」

 一歩踏み出した。

 

「藤林杏がそうあれかしと叫べばっ!世界はするりと従うんだよっ!」

 

 右手に衝撃。嫌な音がする。恐らく鼻に直撃したんだろう。拳が真っ赤に染まる。

「てめぇ、調子こいてんじゃねえぞ!」

 坊主が殴りかかってくるのを、逆に腰にかぶりついて押し倒す。そしてそのまま馬乗りになって殴りつける。

「てめえらっ、女の子をっ殴ってんじゃっねえよ!」

 怒鳴る度に拳を動かした。すると、後頭部に衝撃。火花が散った。

「あたしの顔、よっくも殴ってくれたわねぇえ!」

「男がギャアギャアうるせえっての。女扱いしてほしけりゃ、智代ちゃんに弟子入りしてきやがれ」

 クラクラする頭で相手を見据え、腹を蹴った。オカマは目を引ん剥いて崩れ落ちた。

 

へ?僕勝ったのかよ?

 

 杏に目を向けた。すると

「陽平!後!」

 振り向く前に、体ごと横に素っ飛ばされた。力の壁で全身を叩きつけられた感じだった。

「ぐ……かは」

 うめくのも痛い。息をするのすら苦しい。それでも目を開けて何が起こったのかを把握しようとした。

「てめえ……うざってえんだよぉ、クソがぁ!」

 

 

 

 なぁ、杏。

 先手必勝はいいけどな、相手倒すんだったら確実に沈めような?

 ここでゴリラ復帰はないだろ?

「ぶち殺してやらぁ、コン野郎ッ!」

 顔に何かが当たった。

 それ以外ははっきりいって解らない。ただ、どうやら立っているわけではないようだ。

 

 

 

 

「つーか暑いからアイス奢れ」

「嫌だよ。大体、今日で何度目だよこの会話?」

「にゃにー?あたしの頼みが聞けないってのか、こん畜生め」

「あーはいはいって……」

「ん?おー、やってるやってる」

「ねぇ河南子……」

「うん」

「あの長い髪の女の子、確かねぇちゃんの友達だったよね」

「……ふーん?」

「で、今殴られてる男の人、確かにぃちゃんの友達だったような……って、あれ?どこ行った?」

 

 

 

 

 

 本当にヤバい時、人は何を考えるんだろうか。

 僕の場合、まだ痛みで鈍くなってないどっかで、自嘲気味に意識が「ああ、こりゃもうだめだわ」と言うのが聞こえた気がする。

 そして僕は、朧気にしか見えなくなった目で、ゴリラが両手を組んで、鉄槌のような拳を僕の頭に振り落とすのを、冷めた感じで見ていた。杏が僕の名を呼んだ気もするけど、気のせいかもしれない。

 ま、こんなもんかな。

 そう思った時、音がした。

 うわぁ、頭が潰れる音ってこんなのか。

 そう思っていたけど、どうも違うようだった。

「なっ……」

「あーやっちゃった」

 聞き覚えのない声がした。

「つーわけで、新しいプレーヤーが参戦しました。はい、はくしゅー」

「ああぁ?」

「……笑えっつーの」

 いや、どこをどう笑えと。

「何、あんたもこいつらの仲間?」

 その新プレーヤーは小柄な女の子で、茶髪のセミロングをツインテールにしていた、結構かわいい子だった。もう少し口調がそれっぽくなれば、もっといいんだろうけど。

 つーか、いや、ほんと見たこともない女の子なんですけど。

「じゃあ、やっちまおうじゃねえか」

 いつの間にか坊主とオカマが再挑戦モードに入っていた。三対一。しかも女の子対野郎共。しかしそれでも

「ふーん、やっぱお兄さん達やるんだ。感心感心。でもね」

 彼女は壮絶な笑みを浮かべた。

「あたしより強い女は、世界広しと言えども、たった一人しかいねぇから、そこんとこよろしく」

 

 

 

 

 

 

 

 気がついた時には、僕は知らない天井を眺めていた。

 遠くで声がする。

「しっかし変るもんだなぁ……エプロン似合ってますよ、先輩」

「う……」

「いやぁ、新しくない、それ?こいつに選んでもらったとか?超ラブラブ〜、なんつって」

「……あ、ああ、お気に入りだ、朋也に選んでもらったぞ、超ラブラブだぞ、いいだろっ!」

「ってまたそこで開き直るのな、お前」

「いやぁ、同じこと言ってねぇちゃんにちょっかい出す河南子も河南子だけど……」

「んだぁ?やんのかてめー」

「いや、俺んちでそういうのはやめてくれ」

 四人のうち、二人は岡崎と智代ちゃんだ。じゃあ、僕は岡崎の家にいるんだろうか。一体どうやってここまで来たんだろう。

「あ……」

 情けないほど気の抜けた声が出た。

「陽平っ!」

 杏の顔が視界に入る。目尻に涙が溜まっていた。

「きょ……―!!」

 喋ろうとした途端に激痛が顔全体を襲う。

「起きたか?」

 岡崎がやってきた。

「何つーか……ひでぇ顔だぞ、お前」

 最初に言うことがそれですかっ!

 突っ込みたかったんだけど、やめておいた。

「ま、智代によると骨折したところはなさそうだし、後で一応病院に行くのもいいだろうけどさ、会社は休んだ方がいいだろやっぱ」

「……」

「つーか本当にモザイクが必要だな。見てて気分悪くなってきた」

「アンタほんっっとうに薄情っすねぇあたたたたたたたたた!」

 誘導されて怒鳴ったら顔が割れるように痛んだ。

「馬鹿だろお前」

「……」

「ちょっとそれぐらいにしておきなさいよ」

 杏が割り込んできた。

「怪我人なのよ?それとも朋也も仲間入りする?」

「遠慮させていただきます。大体、春原の回復力なら明日休めば元通りになるだろ」

「え?そうなの?」

「知らなかったのか?こいつは秘密結社に捕らえられて、改造人間にされたんだぜ?」

「嘘?本当に?」

「ああ、名前も怪人ヘタレ男」

「そうなの……だから」

「ああ」

「って納得しないでそこでっ!」

「ほらもう喋れる」

「あ、ほんとだ……じゃなくてぇ!」

 さすがに体を起こすのはまだ無理のようだった。

「で、あの後どうなったの?」

「うん。えっと鷹文君と河南ちゃんがあの三人を熨した後、怪我の処置とかもあって朋也と智代のところに一応行こうってことになったんで、今ここにいるってわけ」

「鷹文……って誰?」

「おや、起きたのか?無理しないで寝てていいのだが」

 智代ちゃんがやってきた。後ろには知らない青年と、先ほどの女の子がいた。

「君達は……」

「何だ、お前達は自己紹介もしていなかったのか?」

 智代ちゃんがあきれたように言った。

「しょうがないよ。僕だって杏さんは知ってるけど、この人はねぇちゃん達と一緒にいたのを見たことがあるってだけだし」

「ねぇちゃん……?」

 すると青年が照れたように笑った。

「ごめん、今ちゃんと挨拶します。坂上鷹文です。姉がいつもお世話になっています」

「え?君が智代ちゃんの弟?」

 前に聞いたことがある気がする。確か智代ちゃんが生徒会長になったのは、弟と桜並木を見に行きたいという話だった。

「で、このうるさい奴は……いてっ」

「ちゃお。あたしは河南子。入谷河南子。あ、これイリタニ、って読むからね?イリヤじゃないから。で、UFOとも関係ないんでそこんとこよろしく」

 岡崎をグーパンすると、あの喧嘩強い女の子がカンラカラカラと笑った。はぁ、よろしく。

「……笑えっつーの」

「どこでだよっ!」

「河南子は私の後輩で、鷹文の」

「ワーーーーーーーーーー!!」

 急に鷹文が(既に呼び捨て)顔を赤くして奇声を上げた。び、吃驚するなぁ。

「鷹文、どうしたんだ奇声をあげて?これじゃあまるで春原病の患者じゃないか」

「何その春原病って!」

「知らなかったのか?とても稀な病気で、かかると脳味噌が腐りまともな思考ができなくなるという奇病だぞ?私も朋也もお前と接するときはできるだけかからないように努力してきたんだが……そうか、鷹文には免疫がなかったんだな」

「どこから仕入れたんですかそのデタラメッ!」

「デタラメではないぞ?朋也が」

 ズボファンッ

 ハードカバーが風を切り、岡崎が前のめりに倒れた。

「あんたって奴はッ!どれくらい自分の奥さんに偽情報吹き込めば気が済むのよッ!」

「え?なかったっけ、そんな病気?」

 頭をがくがくされながら岡崎がさらにボケた。

「ないよっ!つーか、あんた智代ちゃんと僕に謝れよっ!」

「朋也……私にまた嘘を……」

「うわ、先輩泣いてるよ。これ、超レアイベントじゃね?」

「にぃちゃん、ねぇちゃんを泣かせるなんてすごいね」

「いやそこで感心してるんじゃないお前ら!」

「うっるっさっい!陽平が寝てるんだから、あんたら静かにしなさいよっ!」

 いや、一番うるさいの杏なんだけどな……

 

 

 

 

 

「ま、とにかく明日は休んでおくんだぞ、春原」

 玄関で智代ちゃんが心配そうに笑った。

「首になんなければいいけどね……」

 苦々しげに笑い返す。

「大体、どうしてそんなにやられたんだ?また失礼な暴言をほざいたとか……」

 ……答えられないよな。

 あの時は勢いで飛び出て行ったけど、やっぱ途中までヘタレてたんだし、「杏がピンチだったんで助けました」なんて恥ずかしくて言えるかい。見ると、杏も顔を真っ赤にして黙ってるし。

「どうしたんだ?杏、顔が赤いようだが……?」

「ううう……」

 僕は河南子に視線でメッセージを送った。

(助けて)

(ん?何々?)

(何か智代ちゃんに適当に話伝えてよ。助けに言った挙句女の子に助太刀してもらいましたなんて言えないし)

(何だこのヘタレ。まあしょうがないか)

 ありがとう、と心のこもった視線を送った。

「あ〜、そこはあたしが説明しますわ先輩」

「河南子……」

「結論言うと、あたしがやっちゃった」

「河南子が……?なぜ?」

 さあ、どう切り抜ける?

 

「だって春原さんが杏さんを暗い路地で襲ってたから」

 

 はい?

「いやぁ、何だか悲鳴が聞こえるから、行ってみたら『いや、もうやめて』『ククク……口ではそう言っていても、体の方は正直だぜ』『ああ、誰か助けて』『よいではないかよいではないか』って感じで」

 

 どう見ても人選ミスでした。どうもありがとうございました。

 

「春原……」

 岡崎家の玄関に、黒い影が現れた。

「私はお前のことを、ある程度評価していたつもりだぞ?ヘタレの人外生物であっても、まさか婦女子の純潔を力ずくで奪うことはないと」

 ひどい言われようですねぇ、と悲鳴をあげる余裕すらなかった。顔が髪に隠れて、表情が見えないのがなおさら怖かった。

「それを何だ……よりにもよって私の親友を辱めるとは……覚悟はいいな?」

 目が蒼く光る。

「あ、あのね智代……」

「辛かっただろう杏。わかっている、何も言わなくていい」

 杏の弁護がふさがれた。こうなったら、鷹文に証人台に立ってもらうしかない。視線で意思伝達。頼んだぞ。

 

 

(無理。いくら僕でも、ねぇちゃんがこうなると手出しできない)

 

つ、使えねぇ!

 僕は必死になって岡崎を見る。喉が渇いて声が出ない。それでも岡崎なら、岡崎なら何とかしてくれるっ!岡崎なら、僕がそんなやつではないことを智代ちゃんに言ってくれるだろう。何より、智代ちゃんを止められるのは、岡崎だけなんだっ!

 

 

「正直、お前、そこまで堕ちるとは思ってなかったぞ……」

「それが親友にかける言葉っすかねぇえええ?!」

「いや、だからいつ俺がお前と親友だったと小一時間(ry」

 もう、だめだ。

 ああ、智代ちゃんが足を振り上げるよ。今度こそは生き延びれないんだろうな。まあいいか、僕の最後を飾ってくれるのは、高校の頃から智代ちゃんだって決まってたようなもんだし。

 足が伸びる。もう、軌道修正不可能。

 

 

「何つって。冗談ですよ、先輩」

「へ?」

 

 智代ちゃんが驚いた声を出すのと、僕が星になるための第一歩を踏み出させられたのは同時だった。

 

 

 

「はっひふっへほぉおおおおおおおおおおお!」

 

 

 

 

 その後はまあ結構大変だった。

 私は鷹文と河南子に、春原が見つかるまではうちに出入り禁止だと言い渡し、そして激しく落ち込んだところを朋也に優しく励まされ、ようやく今立ち直ったところだった。

「とにかく、杏も今度は気を付けて帰るんだぞ?何なら私達が送って行くが」

「いいわよ、もう大丈夫……それよりもさ」

 急に顔を赤らめて、杏が私に手招きした。耳を貸すと、杏が恥じらいながら、ぼそりと呟いた。

 

 

「あたし、もしかすると陽平のこと、好きになっちゃったかもしれない」

 驚いて見た杏の笑顔は、まさしく恋する乙女のそれだった。

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

 次の日のこと。

「結構飛ばされたんだな」

「うああ」

 ビリビリ

「智代には新記録おめでとうと言っておこうか」

「おあああ」

 バチッバリバリ

「人語は……話せないか。とにかくお前邪魔だし停電の原因になりそうだから、その高圧電線から早く下りてきてくれ。俺の仕事増やしてんじゃねえ」

「ひどいっすねぇアンタ!」

 ビリビリリ

 

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